心のパンツは脱げるのか?

30代のおにー・・・おっさんが心のパンツを脱いで話しかけるよ。

寺地はるな『タイムマシンに乗れないぼくたち』感想&徒然

寺地はるな『タイムマシンに乗れないぼくたち』を読了。
感想を書いてみよう。と思ったはいいのだが、その前提として寺地先生をどう思っているか?の説明みたいなのが必要だなと
頭の中でつらつらと書いてみたら、多分1万字を超えており、感想行く前に離脱する人が多数と判断。

これは困った。
困ったのだが、まぁ書きたいので書いていく。

ただ、
前半は感想、後半は寺地はるな先生の作品とかについて思う事を書いてみようと思う。
読書感想文でずるしたい人は前半だけでOK!

■『タイムマシンに乗れないぼくたち』
この題名の時点で、本来は寺地先生と僕が同じ1977年生まれである。という事を説明しないと、
なかなか伝わりにくい気がする。
伝わりにくいというか、別に同じ考えというわけじゃなくて、
僕には僕のタイムマシンにのらない理由があることを考えたことがあり、寺地先生には寺地先生のタイムマシンに乗らない理由を
物語として書いている。

まぁここら辺は後編で。

本書は短編集である。
この小説だけに限らず寺地先生は
・「普通」と言われるものに当てはまらない人達
・「普通」とは何か
・「普通」ではくてもいい
とか
・人の数だけ「普通」とか「物語」がある。※人の数だけ普通があるのだから、そもそも他の人の普通と自分の普通が一致しないでいい。
でも
・一般的に「普通」とか「幸せ」とか、なぜそれを人はひっぱられてしまうのだろうか。
とか。

そんなことを読むたびに思ったりもする。
個人的には「こうあるべき(わかりやすいのは「女なら~」「男なら~」とか)」に対する、怒りがあるのかな。とも思うし
反面で、そういう事象に対する怒りはありつつ、「そう思ってしまう人」「それにすがってしまう人」を一刀両断するわけでもなく
その人、それぞれって感じもする。
ただ、「幸せのテンプレート」みたいなものから外れたとしても、それは「あり」なんだぜ。って伝えてくれている気もする。

おわかりだろうか?まだ本書について、何も感想を書いていない事を。
寺地はるなという作家の書く小説は、小説そのものも楽しいのだけれど、作中に描かれる人たちが現実に生きている人として溶け込みつつ、
その彼ら・彼女らの物語に共感するしないは別として、「今ここにいる人」として存在してしまうのである。
少子高齢化のこの世の中に、勝手に人口を頭の中に増やしていくわけだからたまったものではない。

さて、そんなわけで、『タイムマシンに乗れないぼくたち』はそんないろんな人達が短編で書かれていますので、
僕も短編毎に感想を書いていきます。

■コードネームは保留
僕が読んだ(注 全部ではない)寺地先生のこれまでの作品をぎゅっとコンパクトにしたような作品。小さなサイズのコカ・コーラ
まずは景気づけに一杯。
ラストから南さんと古川さんの物語がはじまるとは限らず、きっと明日も南さんは「古川さん」と呼ぶだろうし、
一緒にランチを食べるとこもないかもしれない。
でも、藤野すばる。という存在をある意味対角線上で見ていた南さんと古川さんが、交じり合った時に交わした意思の交換というのは、
きっととても大切なことで、「話せばわかる」とか僕は甘い事は思わないけど「この人はこうなのだ」を自分の中に入れられることは大事なのだと思う。
それは普段生きている時にどうしたら交わせるものなのだろうか。

■タイムマシンに乗れないぼくたち
別にぱくってはいませんが、以前書いた。
narushima1977.hatenablog.com
僕の場合は過去を振り返った時に戻りたいか?に対して、戻って「正しく?」やりなおした時に戻ってきた自分は、自分ではない。
という事を書いた。
本編は小学生を主人公にし、主人公と何かいろいろ事情があるおっさんの会話を通じて「タイムマシーンにのらない理由」を書いている。
人は1人なのだけれど、孤独でもなく。1人だからこそ、繋がりを断ち切ることもできないのかな。とか、そこらへん色々考え続けている。

■口笛
自分が見ている風景と人の見ている風景。
4歳の美姫ちゃんにも彼女の物語があって、こうやって書かれていない人物について想像して人類が増えていく。

■夢の女
お話としては個人的に前半が長すぎたのと、ちょっと旦那さんの世界にそこまで入り込んじゃう事はどうだろうとうは思ったが、
まとめ方としては一番好き。展開に違和感があるくらい、ひどい顔をしていたのだろう明日美さんは。
「旦那さんを亡くしたかわいそうな人」に接する職場の人。と思わせておいて(それはそれで、あるにはあるかも)
誰もが明日美さんをそれぞれの想いから心配していた。
これはあれやね、叙述トリックちゅーやつやね。
まぁでも「食べる」って大事よね。
ラストも好き。今一緒にいる。それが大事な瞬間はあると思う。

■深く息を吸って、
これはズルい笑
もしかしたら「寺地先生のことか?」と思わせる。実際はどうなのかは知らないし、それは重要じゃない。
でも同じ年齢なので
「スタンドバイミー」が「リヴァーフェニックス」がどんな存在だったのかはよくわかる。
僕はそこからキングであるとか、キャッスルロックという架空の町に夢中になったのだけれど、
映像化された「スタンドバイミー」は1977年生まれにとって、小説より先に映像の方に触れたはずなのだ。

ずるいのは実体験だとしてもそうだと思えるし、実体験じゃなかったとしたら、ぐぅの音もでない作品で刺された感じ。

個人的には「タイムマシンにのらない」けど、タイムマシンであの頃を覗いた時に「大丈夫。あなたは大丈夫」とみている感じ。
そして、令和の今。中学生をしている子供たち。それぞれしんどい事もあるだろう。
自分が大丈夫だったから、君は大丈夫。と言っていいのかはわからない。
ただ、何か心動かすもの、それが人からみたらどんな滑稽なものであれ、そういうものに誰もが出会えればいいなと思っている。

こういうのを作品として世にはなっている寺地先生はすごいなと思うのであった。

ぜーんぜん、話は関係ないが
あいみょんの『君はロックを聴かない』なんかにちょっと近い感覚。ちょっと違うのだけれど。

灯台
会いたい人にあう。好きな人に好きと伝えてみる。こういうのが照れずに素直にできていたら人生は違っていたかもしれない。
まぁでもそれができないのが若さなのかもしれないし、でもそれができるようになると豊かな人生にはなるのかもな。とは思う。
『モブ子の恋』とか読むといいのではないだろうか。

■対岸の叔父
これは問題作。というほどでもないけれど、「おりあいをつける」というのは何なのだろうか。
ただ、あるがままに生きる事の賛歌にしてしまうと、それもちょっと違う気もして。
ここについてはまだ言語化ができない。
自分が子供時「あの時感じた違和感は嫌悪や怒り」であり、今もそれに苦しむ子供がいるのなら、「それはダメでいいんだ」と伝えたい。
でも「ダメだ」と声をあげられるのだろうか?それは誰がダメだといってあげればいいのだろうか?

ここらへんは物語としてのマレオさんはファンタジーでも、彼の息子さんが野球を辞めた理由は現実の問題として突き刺さる。

以上となります。
結局物語を楽しみつつ、登場人物1人1人が今生きている存在になり、彼彼女達をとりまく社会には自分も存在するので、
何ができるかな?とか考えだしちゃうわけであります。
まぁ「自分と目の前の人大事にしような!」って事で終わってもいいのだけれど、
「それは、あり。ありのあり」
っていうのを伝える事で楽になる人がいるなら、僕も「あり」といってあげたいな。とは思います。

さて、後半についてですが、
またいつか。

書きたかった事は
・寺地作品は映像化できるのか?
を軸に、
・倍速とかで映像を見る事
とか
・小説だからこその時間
とか
そういう事をかきたいと思いましたが、
ここらへんはまた今度。

全然フィールドも違うし、比較する必要もないのだけれど、
シンプルにいえば同級生ですごいのがいるので負けたくないな。と作者個人へは思うのでありました。

それでは、また。