心のパンツは脱げるのか?

30代のおにー・・・おっさんが心のパンツを脱いで話しかけるよ。

寺地はるな『どうしてわたしはあの子じゃないの』を読んで想う。

14歳になったばかりの頃、それまで顔も名前も知らなかった他のクラスの女の子から急に好意を寄せられて、どうしていいかわからず『おはよう』と声をかけられても無視し続けた事がある。

何で女の子は友達がたくさんいるところで僕に声をかけるのだろう?恥ずかしいじゃないか。

僕が1人の時は何でその子は沢山の女の子がいるところで『おはよう』というのだろう?

男友達とバカをするのに夢中だった僕に急に異性を意識させられて何も出来なかった。

正確に言えば『避けた』

もう30年くらい前の事で、ぼんやりとしか覚えていないけど、その子や周りの子達にとって僕は『挨拶も無視する失礼な奴』だった。

僕は僕で一対一でゆっくり話す機会があればなあ。なんて事を考えたりもしたけれど、それは祈りで表面上は誰からもわからない事。

 

なんて事をちょっと思い出させてくれたのが、

寺地はるな先生の『どうしてわたしはあの子じゃないの』

 

冒頭の僕のエピソードとこの本のメッセージはちょっと違うのだけれど、寺地先生の著作で僕が好きな『他人は自分が見えてる部分が全てではない』というのが本作も描かれている。田舎から出たいと切に願いながら生きる主人公の学生時代の出来事と友人達それぞれの心情が『あの時書いた友達への手紙を3人で読もう』という現在の出来事に向けて紡がれていく物語。

 

自分に見えている景色が他の人からは違う景色だったり『俺がお前なら』ってあるのだろうか。あるのだろうなと思う。僕はもう忘れてしまっているだけで。

14歳の時、あの子を無視し続ける僕を見ていた人の中には『僕の変わってよ』って思っていた男の子もいるのかもしれない。

 

程度は違えど今も似たような事で悩んだらもする。仕事で『前任者と比べられてるだろうな』とか『きっとこの案件落とすと○○と思うのだろうな、話したくねぇなぁ』とか。

自分の思いを全てぶつけるわけにもいかず、かと言って想像した相手の反応にビビったり怖気付いたりしたり。

未だに僕ではない誰かと闘いながら『まぁ俺は俺だし、しゃーない』と思いつつ日々を過ごす。言葉にするように簡単に割り切れないけど。

 

でも、誰かと比べても、自分は誰かにはなれない。せいぜい『誰かを真似しようとする自分』だろう。

 

だから、なるべくなら自分は自分と思いつつ、『相手がどう思うかを勝手に推測しても仕方ない』として、気持ちを伝えるのがいいのではないか。

まぁ『俺はこう思ってる、君がどう思うかは知らない』では成り立たない事が沢山あるけれど。

 

せめて近しい人とは相手がどう思うか?とか推測せず俺はこうだな。を言えるようにしたい。

 

そんな事を寺地先生の本作から改めて思った次第です。

 

作品の内容について思った事は男である僕としてはミナのお母さんの章を読んでみたかったかな。触れ合うことのない、でも五十嵐を車で何回も同乗させてた心情は後学の為に知りたいところです。寺地先生。

 

あと勝手なイメージとしては安藤針は『椎名林檎』だと思う。正解はそれぞれの中に。とは思うけど僕のイメージとして。

 

なんだかんだと小説を読む事を少しずつ復活させてくれている寺地先生に感謝しつつ、SNSなんかで『どうしてあの人はあんなにいい暮らししてるの?どうして私は?』とか思っちゃったりする人は本作を読むといいと思う。

 

2021年最初の一冊。

良かったら是非。

 

 

どうしてわたしはあの子じゃないの

どうしてわたしはあの子じゃないの