心のパンツは脱げるのか?

30代のおにー・・・おっさんが心のパンツを脱いで話しかけるよ。

俺と僕の話。

こんばんは。今日もTwitterを見ていると気が滅入るのでブログに逃げてきました。

Twitterしかやる事ないのか?と疑問に思われる方もいるかと思いますが仕事もしております。

仕事…仕事なぁ…

さて、今日はですね。何か丁寧に書いてますよね。こういう時の一人称は「僕」な感じです。

「いい大人が僕ってw」という意見を見たことがある気がするのですが仕事でも余程オフィシャルじゃないと「私」とか使わないですね。

Twitterなんかでリプ飛ばす時も「僕」ですね。

さてこれをお読みになる10名の皆様(最近15名位になった気がする。ありがとうございます、ありがとうございます)はお気づきだと思いますが、僕のこのブログ。「俺」の登場回数が多いのですよね。

なんなら、俺からはじまって途中で僕になったりと、テーマや話してることに応じて一人称が変化したりもしますが、「これって使い分けてるのですか?」とご質問を頂きました。

ええ、頂きましたよ。俺の中の僕から。

自分で質問を作り出し回答するのを公開していくストロングスタイル。公開と後悔で韻とか踏んじゃえばいいっすか?自分?

 

疲れたので崩すけど、俺とか僕とかは多少丁寧に書くか口語的に書くかで傾向はあるかと思うけれど脳内で語ってる時に俺なのか、僕なのかくらいでしかない。

このブログの現在のスタイルは基本思った事をそのままフリックで入力するため、構成も考えてなければ読みやすさ、言葉遣いを自由にしている。

で、頭の中で思った事を書こうとするときに多いのが「俺」なのである。

それはこのブログの読み手を自分自身の自問自答としているからで、もし誰かからお手紙が来たら、多分「僕」として丁寧に書くだろう。

 

人に対する言葉遣いで強い言葉を投げるのは好きじゃない。

 

で、書きながら思ってるのだけれど「俺」として文章書くのって結構大切なんじゃないかと僕は思うわけです。はい。

 

実生活で俺が俺として使うのはごく近い人だけで、基本は僕なり私なり。

あれを解放する時が極端に少ない。

友人に会う頻度も少なく、雑談するのも出来ない時に最後は自分自身であれこれ試行する時の「俺」を前提としたものを明文化するのはリスクもあるが素の部分を曝け出してる気がする。

 

別に俺でも僕でもいいのよ。

アタシとかでもいい。

俺が好きなもの。僕の好きなもの。アタシの好きなもの。俺の中の俺の呼び方はなんでもいいのだけれど、なるべく素のままに。それが仮に粗野になろうとも、自分と向き合う場所でありたいと思う今日この頃。

 

たまに文章の語尾がおかしくなるのは照れであり、おっさん的なのは年相応であり、わかる人が拾ってくれたら嬉しいというおふざけであったりする。

 

最近の傾向として、書きながらスッキリするというか「ここまでかな」というのがある。

いまがその時だ。

読む人にとっては「え?ここで放るの?」とあるかもしれないが、ここから先は

・リアルタイムじゃなく考えた文

・絞り出した謎の言葉

のどちらかになるように思える。

 

それはそれで自分自身を試したい時もあるが、それは脳みそが疲れると思うので、疲れない程度に軽やかに。多少の負荷で眠れるみたいな使い方をしたい。

 

今日のまとめ

「岸田内閣って野党もマスコミも認めた自民党という最悪な状況じゃないか?」

と呟こうと思ったが俺の中でドンピシャなので万が一荷物いつもより閲覧多くて変に絡まれたりするの怖いからtweetはしませんでした。

 

ここだけの話しということで。

 

それでは。また。