心のパンツは脱げるのか?

30代のおにー・・・おっさんが心のパンツを脱いで話しかけるよ。

さまよえる俺の文章 -ChatGPT Style-

別に読み返していないが、

「頭の中でブログは書き終わり、結局書けない」

「箇条書きから、ブログになれば楽なのにー」

と何年もぼやいていたら、そんな時代が急に来てしまった。

 

実際に「ChatGPTで最適なブログの見出しや構成がここまで出来る!」みたいな話も散見される。

 

仕事についてはChatGPTがアシスト的にどれだけ貢献してくれるのかワクワクしてるのだが、ブログなんかについては、いざ願いが叶うかもという段階で「?」が頭の中でグルグルしている。

 

ChatGPT が書いてくれる俺の思想に基づいた最適なブログは、俺の言葉なんだろうか?

 

みんなが読んでくれる最適なSEOと、興味を惹く見出し。読みやすい文体に改行。

実際のところはしらんけど。

 

なんというか俺は田沼意次がよかった!

濁ってていいんだ。誤用も変な言葉遣いも、それが味じゃないのか?

雑な文章を濁りというのは良くても、それを田沼意次にするのはいいのか?知らん!

 

きっとこれから、オリジナルとは何か?という世界に入るのだろう。

 

少し前に履歴書を手書きで書かない事に対して、炎上というか、ボヤがあったが、情報を伝える手段の発達に関して手書きの必要性はない。

 

ただ、この先、ChatGPTが最適化かつポイントを明確にしながら要約してくれた職務経歴書を暗記して面接に挑むとしたら、それはその人の生き様なのだろうか?

 

ビジネス文書。公式な場での文書。てにをは。は大事だ。

これのおかげで俺の仕事は劇的に楽になる。楽になり過ぎて職を失うかもしれない。

 

ただ、もう遠い昔の話だが、友人の結婚式のスピーチで俺が見てきた友人の人となりと、今日の日がどんなに嬉しいか。稚拙な文書だったかもしれないが、たくさん考えて、内輪の話になり過ぎず、列席のご両家のご家族がちょっと喜んでくれるような、それでいて「どうせ聞いてねぇ」も含めたギリギリのライン。そんなことを考えて推敲を重ねたあの珠玉のメッセージはChatGPTで数秒でアウトプットされたとしたら、それでいいのだろうか?

 

今の俺にはまだわからない。

 

ちなみにスピーチは

人生には坂が3つある話と大切な袋が3つある話をした。ChatGPTでいいやんと今なら思う。

 

何度も言うがテクノロジーは発展していく。それは否定しない。

俺は字が汚いし、手書きで伝えられない分、こうしてテキストとして入力している。

音声だ、動画だと言う時代かと思っていたら、「お前の文章から、お前の文章を書いておいたぞ」の世界がやってきた。

 

どこまで抗えるかわからない。

抗う必要があるのかもわからない。

 

ただ、今俺は俺と過去の俺の蓄積から導き出される俺との勝負に入った気がする。

 

おれはさまよえる文書

もっと、もっと、もっと速く

 

 

この文書はChatGPT 7にて出力されたものに作者が12箇所の修正を加えて校了としました。