心のパンツは脱げるのか?

30代のおにー・・・おっさんが心のパンツを脱いで話しかけるよ。

ダラダラと。

4連休なのだけどほぼ何もせず1日目が終わった。

2回目のワクチンを打った事で少しずつ、周りの環境を確認しながらこの一年半の繰り返す生活から少し抜け出せる光明が見えてきたと思い午前中に珍しく友人、知人に近況を連絡。

そんなわけで午前中は何もしてないかと言えば『大晦日に会えそう』『11月くらいには会えるかもしれませんね』『秋に一献行けたらいいですね』的なメッセージを最後に送る何回かのやりとりを複数人としたので、これだけ切り取れば充実してるようにも見えるけど、実際まだ会えるかとかはわからないのであった。

でも大晦日には会えるのではないかと期待はしている。

僕は接種券配布が早かった事で最速に近い時間軸でワクチンをうてたけど、周りは今月1回目、来月、再来月に完了というイメージ。

よって10月くらいからワクチンが効果がないような変異が無ければ、摂取率の高まりとともに会食のリスクが低減していくと思われる。

思われる…って『みんな知ってるよ』的なことを改めて書くのは恥ずかしくもあるが、まぁよい。

 

午後はまぁダラダラと。

Twitterだけはちょっと離れている。完全にではないけど、ちょっと辛い。ここまでコロナとオリンピックで色んな人が分断するとは思わなかった。

人の数だけ『あれはいいけど、これはだめ』な話題ばかりで、それこそ理解しようとすると心がパンクすると思う。

 

本当はこういう時こそ、美味い飯でも食いながら、クローズな環境でよもやま話を出来る友人が欲しいのだが、今はコロナ禍でもあり会いに行けない。行けたとしても食事を口に運ぶ以外はマスクしてとか、うんざりだ。

 

こういう時に自分の事と向き合うと自分のダメなところばかり見えるのでそれはそれで自傷行為な気もする。

 

ついさっきまで『心の貧しさ』について調べて本を1冊見つけたので連休中に読もうと思う。

 

自分は心が貧しい。歳を取り感受性も衰えて貧しさだけ残ってる。

 

Twitterは辛いのでブログを読んだら今ははてなブログ大賞みたいなのをやっていた、『忘れられない日』とか『私とインターネット』とか。

書いてみたい気もするが、どうなんだろう?

 

もし書くとしたら、僕のインターネットの使い方は正しいけど、求めるものとしては間違った使い方をしていると言うのを書こうかなと思うけど、心が枯れているので『どうせ読まれない』が前提にある。

 

ここの根底にある気持ちは『求められたい』なのかなと思う。『読みたい人がいるなら』『書きたい』であって、書きたいから書くではない。

なんと傲慢な事か。

それでも欲望のまま進めるエネルギーがあればそれもいいなと思うけど、エネルギーもない。

だから、湧き出る力もなければ、人に『エネルギーをください』と頭を下げる事もできず、ただただ立ち尽くしている感が強い。

 

大声で、拳を振り上げて。そんな事をしたいのだがコロナがそれを許さない。

部屋の中でできる範囲で自分ができる事を。

それは想像以上のことが出来なくてストレスが溜まる。

 

人との会話は心の扉を開けて、記憶の扉や感情の扉を開けて、自分が見てた景色には実は裏側があったとか色々な発見で心が動く時だと思うのだ。

 

今はその活動が封じ込められてて、そこが辛い。

 

連休は残り3日あるけど、このままだと同じことを繰り返して終わるので争うために目標を立てた。本を読もうと思う。

 

書いたあと、ゲームでもよかったかな?とも思ったのだけど、本を読もう。

 

フリックが早いので思った事をほぼ推敲せずブログに書けるのはいい。

読ませるためのテクニックがある文章ではなくて、自分の思考をそのまま書いているので、

読む人によって、こいつ幼いなとか、こんな事考えてるのかとか、色々思われるとは思うのだけど、嘘なくこんな事考えてるのかぁ。と人の思考が覗けるのは面白いと思うのだが如何だろうか?

 

俺は俺の中でこんな会話を繰り返すのではなく、他人との会話で何かを作り上げたい。それが笑なのか涙なのか全然わからないが予想してない事をしたいのだ。

 

仕事も同じ。新しいスキームを作りたいけど、作るには力が足りない。色んな人に手を貸してもらうのは勿論だけど、自分自身の知識や発想を鍛えなくてはならない。

だから、本を読むしかない。

本以外にも手段はあるとは思うけど、思いつかなくて検索するよりはテーマがあって本を読む方がいい。

 

色々話したいことがある。でも、誰と何を話すのか、話したいのかわからない。