貴方に、うそを。
今日はエイプリルフール。
嘘をついてもいい日なわけですけれど、そもそも嘘ってなんだろなーって思ったりします。
僕の好きな漫画『天才柳沢教授の生活』の10巻に『嘘の研究』というエピソードがあってこの時期よく思い出します。
天才柳沢教授の生活(10) (モーニングKC (1186))
- 作者: 山下和美
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2012/09/28
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柳沢教授の少年期のエピソードで人は何故嘘をつくのか?を考察しながら嘘とは悪という前提で考えていた柳沢少年がとある嘘の存在に気がつくというお話。
とてもいい話なので詳しくは手にとってもらえたら幸いなのですが、嘘について僕も少しだけ考えてみました。
『言葉に出さなければ嘘にならないのかな?』と思ったのです。
嘘というのは何かしらの会話の中で発生するものかなと。自分をよく見せるためかもしれないし、何か弁明をするためかもしれない。
もしも、今日の僕に誰かが『お仕事頑張りましたか?』と聞いたとしたら。
今日の僕が嘘をつくのなら『はい、頑張りました!』なのでしょう。実際頑張ってなかったので。
ただ、この問いかけ自体がなければ、僕が仕事を頑張ったかどうかは別に嘘にもなり得ない、ただの自分の中の事実だけで終わる話です。
仕事を例えにしたのでわかり難いかもしれませんが、要は口に出さない事で、聞かれれば嘘をつかざるを得ない秘密っていうのも世の中にはあるのだろうなぁと。
その秘密は人それぞれだと思うのですが、その秘密がなんであれ、それを口に出す時に嘘になるか、真実となるかは、その人それぞれの良心のあり方なのだと思います。
良心と書きましたが万人に適用できる基準ではなく、人それぞれのボーダーラインとでもいいましょうか。
僕自身の良心の基準を明文化しようとしてもきちんとは書けないのですけれど、大切なのは「自分に嘘をつかないで生きていけているか?」って事なのかなぁと思います。
誰かと会話をしなくても自分自身といつも対話をする。その時自分の問いかけに対して自分が発する言葉は嘘になっているのだろうか?
全くないといえば嘘のような気もするし、なるべく自分に嘘がないように生きているつもりでもある。
そんな事を考えながら、エイプリルフールという日につく嘘は何なのかなぁと思ったりしていました。
聞かれなければ嘘がないのなら、逆に普段からきちんと聞けばいいんじゃないのかな?と人と人のつながりを考えたりもします。
先に書いた柳沢少年が導き出した最後の嘘は「愛すべき嘘」であり、それを受け取った人にとっては真実となる嘘なのですけれど
そういう嘘をつくのも悪くはないのかもしれないなと思いました。
特に落ちもなく、〆に気の利いた事もかけませんけれど。嘘をついていい日だとしても、それは相手を楽しませる4月1日の真実であればいいなと
思った次第です。
今日はこの辺で。
それでは、また。