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心のパンツは脱げるのか?

30代のおにー・・・おっさんが心のパンツを脱いで話しかけるよ。

またね。が最後の時もある。

何故かずっと心に残っている言葉がある。

高校を卒業した春休み。卒業したから春休みとは言わないのかもしれないけれど。
都内の大学に進学が決まっていた僕は1人暮らしするアパートも決まりあと何日かで上京っていうくらいの頃。

特に用事もなく行った本屋で元クラスメイトのカンダさんに会った。
カンダさんは女の子。今では高校何年生の時だったか覚えていないけれど同じクラスだった事がある。あれ?中学も一緒だったっけ?
ここら辺記憶が曖昧。

何しろ卒業後地元の本屋であった。

別に断りを入れる必要もないのだけれど、僕はカンダさんが好きだったわけではない。
特に仲が良かったわけでもない。
ただのクラスメイトで「あー久しぶりー」って言うくらい。意識もしていない。

だから、その時本屋の入口でお互い自転車を止めて何を話したのかは覚えていないのだ。
「どこの大学いくの?」だったのかもしれないし、
「何で今日こっちにきたの?」だったのかもしれない。

でも、その何分かの二言三言の会話のやり取りの中で多分僕は最後にこう言った
「じゃ、またね」

その時のカンダさんの返しが何故か心に残っている。

「え?もう一生会わないかもしれないよー」

その後の僕の返しは覚えていない。
「またまたー」だったのか「それもそうかー」だったのか。その時の感情も覚えていない。

ただ、カンダさんに言われたこの言葉は何故だか時折思い出す。

しつこいけれど、カンダさんに恋心があったわけじゃない。
ただ「あぁそうか」ってどこかで思ったんだとは思う。

僕らをか細いながら結び付けていたクラスメイトという紐は卒業と同時に解き放たれた。
僕は僕の。カンダさんはカンダさんの新しい世界に行くんだなって思ったのだ。

その後。今に至るまでカンダさんの事は知らない。噂話に上がるような共通の友人はいないし、
ネットで検索してみたいと思った事もない。

ただ、あの春の本屋で言われた「またね」「え?もう一生会わないかもよ」というやり取りを覚えている。

このエントリーを書いている今も「元気かなぁ?何しているのかなぁ」とかは思ったりしていない。

でも、あの時。人生ではじめて「またね」が来ない場合があるんだなって思ったんだと思う。

そういえば、亡父との別れもそうだった。

父が他界したのは1月6日。

僕は年末に帰郷して1月2日に東京に戻った。

父と僕が交えた最後の会話は
僕「じゃ、また」
父「おう、お前も頑張れよ」
みたいな一言だった。

ここも「また」は来なかった。
6日に父に会った時はもう息をしていなかったから。

僕は。もしかしたら僕たちは。
普段の何気ない挨拶で「じゃ、また」とか「また今度」とか使っているけれど、
それがこないまま終わってしまう時もあるのだ。

だから僕は誰かと会うなら余力は残したくないと思っている。
全部を出し切るっていうのはなかなか難しいのだけれど。

せめて。

今年の僕はいろんな人に会いたい。「またね」とか「今度」とか来ないかもしれない「いつか」ではなく形のある時間にしたいと思った。

ちょっと矛盾するけれど「またね」を否定している訳じゃないのです。
貴方との縁は続いています。っていう意味では「またね」ってありだと思う。

ただ振り返ると僕が発した「またね」に対して「やぁ久しぶり」が実現した数はとても少ないんじゃないかなって思ったのだ。「今度是非」からの「はじめまして」もそうかもしれない。

今年は縁を今まで以上に大切にしたいと思います。

そして、このブログを読んでいる方にもとても感謝しています。

それでは、また。

さよならまたね―ぼくとクッキー

さよならまたね―ぼくとクッキー