心のパンツは脱げるのか?

30代のおにー・・・おっさんが心のパンツを脱いで話しかけるよ。

乙武氏の車椅子入店拒否問題で思っている事。

こんばんは。

連日ネット界隈を中心に話題になっている、乙武氏の店名を晒したツイートによる車椅子入店拒否問題について、
個人的にはくだらないなと思いつつ、イライラというかモヤモヤというか気持ち悪さがあるので
ちょっと自分の意見を整理してみます。

やれ人権問題としてみたら、とか、健常者目線でしか物事を見られないとか、
イギリスでは(ハート)とか、乙武最悪とか、こんな店潰れてしまえ。とか。

いろんな意見が飛び交っていて、くらくらします。それぞれの言い分と正義を振りかざしたものいいが
僕は嫌ですね。

一番嫌なのは
ここまで議論が活発になったんだから、どちらが正しくあれ、考える契機になった事は素晴らしい
とかなっていそうな雰囲気な事でしょうか。

まぁそれも一面から見たら間違っていないのかも知れませんが。

先に結論を書いちゃうと
スケープゴートを出さずに、ハンディキャップを持つ人に対して日本はまだまだやらねばならない事があるんじゃないか?を議論・実行する場所を
作らなくちゃね。

って事だと思うのですが、なんかそういう方には行ってくれないみたいですね。

ちょっとまとまらないですが、いくつかの視点から今回の問題を考えました。
当事者じゃないので、推測を前提としています。

乙武氏の視点(彼の目指すもの)

僕は彼の著作『五体不満足』やいくつかの記事、ツイッター等でしか情報を得ていないので、正確ではないかもしれないけれど、
基本的には彼にあるのは「健常者と障害者の対等な社会」(物理的・精神的)の実現なのだと
思っている。

その視点で今回の入店拒否を考えると「何故事前に自分が車椅子である事を伝えなかったか?」という意見に対しては、彼の目指す平等な社会であるならば、それは伝える必要がない情報であり、もしも当日わかったとしても当たり前の事として対処できるていう事が根底にあるんじゃないかと思います。

困っている人がいたら助けましょう。って当たり前なのですが、
まだまだハンディキャップがある人が遠慮している事で成り立っている社会ではあると思うので、乙武氏の目指すものとしては至極まっとうだと思うし、共感はできます。

・・・が、今回のやり方が正しいのかは疑問です。

そもそも今回の問題は、理念は正しく、そこに共感している人が、現実にはまだ至っていない店舗に対して攻撃している構図ができているのが問題じゃないのかと思うのです。

気持の悪いもの:乙武氏は確信犯。店名晒し。
簡単に言えば、今回の件、乙武氏の店名晒しは確信犯だし、店を潰せとまでは思わないにしろ、ダメージを与えようとしたのは間違いないと思います。
だって、乙武氏は頭良いから。聡明ですよ。彼。
僕なんかより遥かに頭がいい。僕が頭がいいのか?という問題はあるにせよ。
あれだけの著作を持ち、キャリアを持ち、ツイッター等で情報発信できるんだから、相当の頭の良さです。
だから、純粋なお方(大半の人)が店名を晒す事でどんな行動に出るかは絶対にわかっていたはずです。

この話をするとツイッターの影響力って具体的にあるわけ?って事をきちんと考えなくちゃいけないのかもしれませんが、単純に
60万人のフォロワーがいて、その内、0.1%の人が乙武さんに共感をして晒された店舗に対して、抗議の行動を起こすとしても600人もいるわけですよ。

実際に不適切な内容や犯罪自慢なんかで炎上する事実を鑑みれば、晒された店舗に具体的に抗議する人が一定数現れるのは明白だし、
乙武さんがそれを知らなかったというのはちょっとリアリティないと思います。

自分の影響力を知っていて、晒された店舗が多かれ少なかれ影響を受けるのを知った上での店名晒しだったと思います。

そこまでするからこそ、今回の問題提起がいろんな人を巻き込んだ議論になっている。狙い通り。だとしたら何も言えませんが。僕は好きじゃないです。

乙武氏を批判=障害者を批判する事になるのか?

よくある意見で、僕が気持ち悪いものの2つ目に、今回の件で乙武氏を批判している人に対して、
自分が健常者だから。自分が障害者になった場合の事を考える知能がない。
みたいな批判を展開している人を良くみるのですが、これはちょっと短絡的じゃないでしょうか?

まぁそもそも今回の一番の気持ち悪さは短絡的に双方が批判し合っている事なんですけれど。

僕は乙武氏を批判している人の中には、別に障害者を差別したり、見下したりしている人ばかりじゃないと思っています。
僕自身、末期癌だった父は最後の方は何故か下半身が動かなくなり、車椅子での移動になりました。
友人は幸い無事でしたが、仕事の事故で指を失うところでした。
先天的なものではなくとも、いつ何がきっかけで自分自身が五体満足じゃないくなるかもしれない。というのは理解しているつもりです。

もっと簡単に言えば困っている人を見かけたら手伝いましょうなんていうのは
当たり前の事として身に着けている人は沢山いると思うのですよ。

乙武氏を批判する人を頭から「差別思想だ」みたいに決めつけないで、何に対して乙武氏が批判されているのかを考える事は大切だと思います。
逆に、乙武氏を擁護する人を頭から「信者だ」と決めつけるのも同様に誤りです。

なんか議論が互いに一方的に決めつけているのが、僕にはとても気持ち悪い。対話しましょうよ。と。

差別と区別

実は区別に変わる言葉を考えたのですが、適当なものがなかったので区別とします。
僕は今回の件は差別と区別の尺度が人それぞれなので、余計に混乱しているとも思っています。

僕自身は今回の件については乙武氏は「予約時に車椅子である事を伝えた方がよかった」と思っています。

こう書くと、すぐに「人権侵害だ!」とか「障害者だから差別される」とか喚く人がいますが、冷静になりましょうよ。
差別じゃない「区別だ」と仮にいったとしても、「区別している事自体が平等じゃないんだよ」って言う人もいますよね。

僕は”今回の件”については”区別”があってもよかったと思っています。

その定義は「通常のサービスと異なる対応を相手に求める時は事前に意向を伝える」という単純な事だと思うからです。

飲食店の予約をする際に「1人たまねぎが食べられない人がいるのですが、料理からたまねぎ抜いてもらう事は可能ですか?」って聞いたり、「海老アレルギーなんですけれど大丈夫でしょうか?」とか
聞きますよね?
車椅子も同じ事だと思うのですが、それも差別になるのでしょうか?
「たまねぎ苦手だからコースから外してもらえないか?」「車椅子だから入店できるスペースを作れないか?」って事前に言っておく事で通常とは違うが、サービスは受けられる可能性が高いと思うのです。

障害だから。とか強調するから話がややこしくなっているのですが、障害も苦手な食べ物も平等なら、事前に一言いう事でスマートに事が運んだと思うのですけれどね。

「区別」が適当な言葉か?というのは上にも書きましたが、本当はこの言葉とはちょっと違うと思うのです。
僕は何でもかんでも「区別」をすればいいとは思っていません。その時々、シチュエーションで必要なら区別(異なるサービス)をすべきだと思うだけです。

区別としてしまうと、「本来は区別される必要のない人」を巻き込んでしまうと思うので。
区別は必要な時がある。でもそれはケースバイケースだ。というのが理解できないと「差別思想だ」って話で思考が停止してしまうと思います。
それが怖いし、実際にそういう議論を展開している人も結構いるなぁと感じています。

障害者の我慢で成り立っている現状もある事を改めて考える。
乙武氏の問題で、理念を現実のものにしようと考えている人達の多くは真っ当な人なのだろうと思っています。
今回の件で問題提起(やり方は間違っていると思いますが)されたのは、まだまだ車椅子の人が外食を楽しむにはハードルが高い場所が多いんだな。って事だと思います。

これを拡大解釈すれば、外食以外にも車椅子というだけでサービスを受けられない事は沢山あるのだろうと推測されます。

それを変えよう!と考える事を僕は否定しません。
「車椅子の人が無意識に諦めていた可能性を広げる」事ができるならそれは素晴らしい事だと思います。

大切なのはそれをどう実現させていくか?を考える事で、
今実現できていないサービス提供者を叩く事じゃないのではないでしょうか?

乙武氏は自身が四肢がないという身体的なハンディを持っている方ですし、社会的にも発言に影響がある人だとは思うので、自身の生活での気づきをよりよい社会にしていくための
パイオニアであると思います。
だからこそ、今回、具体的な飲食店叩きにツイッターを利用したのが残念です。

ちょこちょこいろんな人が言及していますが「いつもに比べて余裕がない」というのが僕も印象に残りました。

店側に落ち度はなかったのか?
これは当事者にしかわかりませんが、乙武氏がツイッターで書いたような言葉づかいで入店を拒否したのならサービス業としては失格かと。
ただ、店舗側は言葉遣いについては乙武氏を否定しているので、どっちが正しいかわかりません。

そもそも「突然、車椅子のお客様が来店されて対応できなかった」を批判する人もいるかと思いますが、僕が批判する時があるとしたら、
「今できない事を、そのまま放置した時」だと思うので、今現状では判断せず、今後をみないといけないとは思います。

実はもっと簡単な事なんじゃないの?

この問題、障害者に対してっていう腫物を扱うような話にしているから、複雑なんじゃないでしょうか?
僕と同じく「乙武さんの事前連絡があれば済んだのでは?」という人の中には、「店側の当日の急な対応ができなかったのは仕方がない」と対になっている場合がありますが、
僕はちょっと違って、
店側も譲歩した内容で交渉できた事はあったかもなぁとは思っています。

まわりくどい言い方していますが、「持ち方わからないから、雑になるかもしれませんが運びます。」「車椅子は大きいので1Fに置いたままでいいですか?」という対応でもよかったんじゃないかと。

「もしも乙武氏を落として怪我させたら、そのリスクはどうする?」
「高級な車椅子が盗まれたら店は責任とれるのか?」
とかそんな事考えたらきりがない。

もっと簡単に。ひょいっと持ち上げて、ちょっと不自由かもしれないけれどサービスを気軽に受けられるっていうのがいいんじゃないかと思います。
そしてその不自由さを軽減するのが「事前連絡」っていう位置づけ。

今回の件で飲食店のHPに注意書きが増えるような事態になってはいけないと思う。

今回一番危惧されるのがコレ。こうなった時は乙武氏も望んでない結末になるんじゃないかと思います。
車椅子の人を入店させるリスクからの直接的なお断りではなく、やんわりと「サービスを提供できません」というお断り。
逆に差別を助長してしまうような事態。

これはあってはいけないと思います。が、ここまで大きな話題になるとリスクヘッジでするお店は出てくるんじゃないかと思います。これ、嫌ですね。

まとめ
自分の考えとして乙武氏の問題提起は意義はあるけれど方法は違っていたと思います。
ただ、その根拠にあるのが「過ちがあった店を叩く事は意味がない」という事ですので「方法を間違った乙武氏を叩いても意味はない」とも言えます。

大切なのは今回の気づきをよりよい社会に還元するにはどうするべきか?を議論していくことかと思います。

今はSNSで気楽に自分の考えを発信できる時代ですから、もっといろんな人の声。特に車椅子の方とかの話を聞いたりして、
どうやったらサービスを平等に受けられるようになるかを考えていくことが大切だと思いました。

最後に。
夕飯前にこの日記を書いて、中断して夕飯を食べたら「こんな事書いてもしょうがないかなぁ」と思って、一度は日記を消しました。
本来は今回の乙武氏の一連の問題に対して自分の感じる気持ち悪さを書きたいと思ったのですが、
満腹になると、ま、いいんじゃね?と。

何がいいたいのかと言えば美味しい食事は大切だという事です。くさくさした気持ちを消してくれる。

だからこそ、美味しい食事の場に車椅子だからという理由で入れないお店が多いのなら、それを少しでも少なくしていく事は大切だと思いました。

そして、それはどちらが悪いか?とかどちらが我慢するか?ではなく、もっと気楽に、お互いのもつリスクを軽減しあうにはどうしたらいいか?を考えたいと思います。

僕は一方的な正義を振りかざすのは嫌いですわ。この件は歩み寄れる話だと思いますよ。

それでは、また。

だからこそできること

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